こちらも参照→https://x.com/genkuroki/status/2071567850624729472
以下の解説(黒木玄による)の後に、 https://physics.nyu.edu/sokal/SocialText_reply_LF.pdf と https://physics.nyu.edu/sokal/reply.html のGeminiによる機械翻訳がある。
議論の文脈の詳細については https://physics.nyu.edu/sokal/#debate_linguafranca を参照せよ。時系列は以下の通り。
Alan Sokal によるパロディ論文 Transgressing the Boundaries: Towards a Transformative Hermeneutics of Quantum Gravity が cultural studies の雑誌の Science Wars 特集号 (Social Text #46/47, pp. 217-252, spring/summer 1996)に掲載されてしまった。
補足: Sokal論文を除いて再出版された Science Wars 特集号のPDFにも所収されているAndrew Rossによる Introduction を読めばどういう運動に関する特集号であるかが分かる。
Sokal論文は内容的にまるっきりのデタラメなのだが、数学や物理学の手堅い部分でさえ西洋もしくは男性による偏った考え方の産物とみなしている点において、この特集号に関連する内容になっているともみなされる。
注意: パロディ論文における議論の仕方はオヤジギャグ的なダジャレによる「正当化」を連発するものであり、真面目に相手をする価値は皆無。
例えば、パロディ論文の註105には「産むか産まないの選択に関する女性の権利の擁護」の意味での "pro-choice" と公理的集合論における選択公理の意味での "choice" にまるで同じ意味であるかのように説明している。さらに「法的および社会的な平等」の意味での "equality" と集合のあいだの等号の意味での "equality" も同一視しています。
原文のみを引用(太字は引用者による):
105...mathematics.
Just as liberal feminists are frequently content with a minimal agenda of legal and social equality for women and ``pro-choice'', so liberal (and even some socialist) mathematicians are often content to work within the hegemonic Zermelo-Fraenkel framework (which, reflecting its nineteenth-century liberal origins, already incorporates the axiom of equality) supplemented only by the axiom of choice. But this framework is grossly insufficient for a liberatory mathematics, as was proven long ago by Cohen (1966).
数学用語や物理学用語と単語レベルで一致している社会的な事柄をそのまま数学や物理学と結び付けることをパロディ論文は連発しています。全編この調子で書かれているので、Sokal氏のパロディ論文には「よくもまあ、ここまでのデタラメを平気で書けたものだ!」と笑う以外には使い道がありません。
Alan Sokal はその論文がパロディ論文であったことを Lingua Franca 誌に掲載された論説 A Physicist Experiments With Cultural Studies (Lingua Franca, May/June 1996, pp. 62-64)で暴露した。
Social Text誌側からの反論 が Lingua Franca 誌の次の号 (Lingua Franca, July/August 1996) に掲載された。後出しジャンケンの非常にバツの悪い反論をしているだけではなく、以下のように「正直な話」を冒頭に書いてしまってしまっている。
Sokal氏の暴露後のSocial Text誌の編集者達の正直な反応(太字による強調は引用者による):
私たち『Social Text』の編集者がアラン・ソーカルの悪ふざけを最初に知ったとき、どのような初期反応があっただろうか? ある者は、ソーカルのパロディはそういう類のものではなく、彼のパロディだという告白は心変わり、あるいは自身の知的決意の挫折を表しているのではないかと疑った。別の者は、ソーカルが自分が暴露しようとしていることについて大して理解していないのではないかと考えていた。また別の者は、本誌が物理学者による悪ふざけの標的になるほど真面目に受け止められていることに驚きと喜びを感じた。……
原文(太字による強調は引用者による):
What were some of the initial responses of the journal’s editors when we first learned about Alan Sokal’s prank upon Social Text? One suspected that Sokal’s parody was nothing of the sort, and that his admission represented a change of heart, or a folding of his intellectual resolve. Another was less convinced that Sokal knew very much about what he was attempting to expose. A third was pleasantly astonished to learn that the journal is taken seriously enough to be considered a target of a hoax, especially a hoax by a physicist. ......
上のように正直な話もしているが、後出しジャンケンで次のようにも述べている:
当初から、私たちはソーカルの持ち込み原稿を少し不自然(hokey)だと感じていた。……
原文:
From the first, we considered Sokal’s unsolicited article to be a little hokey. ......
Sokalのパロディ論文は哲学的にもデタラメなのにこう述べている:
… そのような理由から、現代の物理学者が哲学や形而上学の領域で自分たちの推論と調和する共鳴を発見するという、昔ながらの伝統の「文書」として、読者にとって興味深いものになると編集部は考えた。…
原文:
... On those grounds, the editors considered it of interest to readers as a "document" of that time-honored tradition in which modern physicists have discovered harmonic resonances with their own reasoning in the field of philosophy and metaphysics. ...
解説: 編集者達はおそらく「ソーカル本人は無意味なデタラメのつもりで書いたと言っているが、ソーカル氏が物理学者として哲学用語を継ぎ接ぎして出来上がったあのテキストには、物理学とポストモダン哲学の『調和的な共鳴(真実性・合致)』が見事に現れているともみなせるので、掲載価値があると考えた」のだろう。しかし、実際にパロディ論文を読めばそのように考える余地はないことが分かる。
さらに次のように述べているが(太字による強調は引用者による)、さすがにこれはあり得ない(笑):
… ソーカルの論文が物理学の査読者によって水準以下と判定されたかどうかは議論の余地があるが(そもそも物理学という学問分野への学術的貢献ではないため)、少なくとも私たちが採用した基準によれば、最終的に私たちには無関係であった。
原文(太字による強調は引用者による):
... Whether Sokal’s article would have been declared substandard by a physicist peer reviewer is debatable (it is not, after all, a scholarly contribution to the discipline of physics) but not finally relevant to us, at least not according to the criteria we employed.
さらにいかにも「ポストモダン」な苦しい言い訳までしている:
… それがパロディであるという事実は、徴候的な文書としてのこの作品に対する私たちの関心を実質的に変えるものではない。…
原文:
... Its status as parody does not alter substantially our interest in the piece itself as a symptomatic document. ...
解説: 「著者が何を企んでいようと、テキストが誌面に現れたこと自体が、当時の学術界の心理や社会状況を映し出す『徴候』として有効である」と宣言することで、デタラメになるように書かれたパロディ論文の掲載に強引に意味を見出し、騙された自分たちの失態を隠そうとしている。
ソーカルの返答によれば次は事実ではない:
… 残念ながら、彼[ソーカル]は今回の『Lingua Franca』誌のために私たちとの出版可能な対話に応じることを辞退した。…
原文:
... Unfortunately, he [Sokal] declined to enter into a publishable dialogue with us for this issue of Lingua Franca. ...
同じ号にSokalによるSocial Text誌による反論への返答も掲載された。
ソーカル氏は冒頭でこう述べている:
『Social Text』の編集者の一人が私の論文がパロディであったことを未だに信じていないと知り、面白く思っていることを告白しよう。やれやれだ。
原文:
I confess to amusement that one Social Text editor still doesn't believe my piece was a parody. Oh, well.
解説: ソーカル氏はこの1行で返答を終わりにしても良かった。まるっきりデタラメな内容のパロディ論文について、できは悪いが掲載価値はあると判断しても大丈夫かのような「高評価」によって掲載してしまったことへの苦しい言い訳に終始している様子そのものが滑稽である。
Social Text誌側の時系列の一部はSokal氏の手もとにある電子メールの記録と食い違っているらしい。事実関係について我々は調べようがないのだが、Social Text 誌側の言い訳が本当であった方が Social Text 誌側にとって致命的だと考えられる(その理由は上における言い訳の引用を見れば分かる、太字の強調は引用者による):
『Social Text』の編集プロセスについて言えば、編集者たちの事後的な(事後作られた)弁明がもっともらしいかどうかは、読者自身で判断していただければよい。もしその弁明が本当だとしたら、それは今回の事件そのものよりもさらに致命的かもしれないのだから。彼らの主張する時系列の一部は、文書記録(私が保存している、ロスと私の間で交わされたEメールや通常の手紙)と食い違っているが、もはや済んだことをしつこく蒸し返すのはやめておこう(死んだ馬に鞭打つような真似はすまい)。
原文:
As for Social Text's editorial process, readers can judge for themselves the plausibility of the editors' post facto explanations, which if true may be more damning than the incident itself. Some of their chronology is at variance with the documentary record (e-mail and regular mail between Ross and myself, which I've saved), but let me not beat a dead horse.
インターネット上での論争で苦しくなった側が「口頭での」対話を要求して来るというパターンはこのように約30年前からある。そのような要求には応じないことが決まり切った定跡であり、ソーカル氏もそうした。
ソーカル氏が拒否したのは「口頭での」対話であった:
ロビンズとロスは、私が彼らとの「出版可能な(活字になる形での)対話に応じることを辞退した」と述べている。全くの逆だ。私たちは今まさにその対話を行っているではないか。私が辞退したのは「口頭での」対話である。私に言わせれば、口頭での議論は言葉数の多さの割に中身(内容)が伴わないことが多いからだ。
原文:
Robbins and Ross say that I "declined to enter into a publishable dialogue" with them. Quite the contrary: we're having that dialogue right now. What I declined was an oral dialogue, which in my opinion usually yields a low ratio of content to words.
Letters from readers (Lingua Franca, July/August 1996)
同号に掲載されたこれも読むと第三者達からの反応がどうであったかも分かる。Social Text誌によるパロディ論文の掲載を擁護する意見は見当たらない。ここまでひどい代物を「できは悪いが掲載する価値はある」というような理由で掲載するのは馬鹿げている。
以下は、『Social Text』誌の最新号に掲載された自身のエッセイがパロディであり、この悪ふざけ(ホックス)を科学研究(サイエンス・スタディーズ)への批判として意図したというアラン・ソーカルの『Lingua Franca』誌での主張に対する、編集部からの回答である。
ソーカルの論文および詳細な解説は「ソーカル事件(The Sokal Affair)」で確認できる。
『Science Wars』はデューク大学出版局を通じて注文可能である。
私たち『Social Text』の編集者がアラン・ソーカルの悪ふざけを最初に知ったとき、どのような初期反応があっただろうか? ある者は、ソーカルのパロディはそういう類のものではなく、彼のパロディだという告白は心変わり、あるいは自身の知的決意の挫折を表しているのではないかと疑った。また別の者は、本誌が物理学者による悪ふざけの標的になるほど真面目に受け止められていることに驚きと喜びを感じた。さらに他の者たちは、彼の悪ふざけが新たな戯画化の連鎖を引き起こし、近年科学研究や文化研究が科学界の保守派から多くの嘲笑を浴びている状況を固定化させてしまうのではないかと懸念した。
私たち全員が、ソーカルが自らの主張を通すために選んだ欺瞞的な手段に心を痛めた。このような倫理違反はいかなる学術コミュニティにおいても重大な問題であり、科学出版において発生した場合、深刻な結果をもたらす。ソーカルの行動は、非科学系ジャーナルにどのような結果をもたらすだろうか? 本誌のようなジャーナルに自発的に原稿を投稿する無名の著者たちが、今後は不必要な疑いの目を向けられる可能性があり、『Social Text』が育成に貢献してきた知的探求の開放性が損なわれることになるだろう。
反応は様々であったが、ソーカルが悪ふざけの顛末を語る中で、あまりにも多くのことを当然とみなしすぎているという点では全員の意見が一致している。実際、彼の論文が掲載されたこと自体が文化研究の腐敗を証明しているという彼の主張は、その論文自体と同じくらいぐらついている。当然のことながら、私たちは現在、ソーカルの論文を掲載したことを後悔しており、読者や、この事件の結果として自らの研究が貶められたと感じているかもしれない科学研究や文化研究のコミュニティの人々に謝罪する。
読者に論文掲載の背景事情を明確に伝えるため、私たちは時間を割いて編集過程の関連する歴史を詳述することにした。『Lingua Franca』誌が彼の声明を掲載する決定を下した際、私たちにそうした機会を与えなかったことを残念に思う。
当初から、私たちはソーカルの持ち込み原稿を少し不自然(hokey)だと感じていた。専門の物理学者から難解な哲学論文が送られてくることなど日常茶飯事ではない。著者もその研究も知らなかった私たちは、彼の意図について推測を交わし、この論文は専門の科学者が自らの分野の発展に対してポストモダン哲学からのある種の肯定を真摯に求めた試みであると結論づけた。彼の「ポストモダンランド」での冒険は、私たちの好みではなかった。文化研究の最新動向を追おうとする同時代の他のジャーナルと同様、『Social Text』がポストモダン理論の議論に対する直接的な寄稿を掲載してから何年も経っており、ソーカルの論文が人文学者や社会科学者からのものであれば、やや時代遅れとみなされていただろう。
しかし、自然科学者の作品としては珍しく、ソーカルのような人物がポストモダン認識論の分野にどうアプローチするかをまっとうに示していると考えた。つまり、自身の弱さをカバーするために膨大な脚注に頼りながらも、この分野の専門用語の「感覚」を不器用かつ強引に捉えようとしている、という一種の症状としてである。換言すれば、私たちはこの論文を、同意できる一連の議論としてよりも、奨励する価値があるかもしれない善意の行動として読んだのである。そのような理由から、現代の物理学者が哲学や形而上学の領域で自分たちの推論と調和する共鳴を発見するという、昔ながらの伝統の「文書」として、読者にとって興味深いものになると編集部は考えた。結果として、この論文は『Social Text』が認めるいくつかの掲載基準の一つを満たしていた。
編集コレクティブによって制作される(そして4年前にデューク大学出版局に採用されるまでは完全に自費出版であった)政治的意見と文化分析を扱う非査読ジャーナルとして、『Social Text』は常に、アカデミズムの領域と同じくらい、独立左派の「リトル・マガジン」の伝統に自らの系譜を見出してきた。そのため私たちは、それがフィクション作品であれ、セックスワーカーへのインタビューであれ、反植民地主義に関するエッセイであれ、投稿の価値を議論する際には多様な編集基準のバランスをとっている。言い換えれば、ここは専門的な科学ジャーナルのそれとは全く異なる基準と目的を持つ編集環境なのである。ソーカルの論文が物理学の査読者によって水準以下と判定されたかどうかは議論の余地があるが(そもそも物理学という学問分野への学術的貢献ではないため)、少なくとも私たちが採用した基準によれば、最終的に私たちには無関係であった。
ソーカルの論文に関心を持った私たちは、彼に非公式に修正を依頼した。私たちは彼に、a) 哲学的推測の大部分を削除すること、b) 脚注の大部分を削除することを求めた。ソーカルはいかなる修正にも抵抗を示し、科学界の同僚はこのような広範な文書化を期待しているという理由から、脚注と参考文献のほぼすべてを維持することを主張した。彼の反応から判断すると、彼の論文はそのままの形で掲載するか、さもなくば掲載しないかの二択であることは明らかだった。この時点で、ソーカルはジャーナル編集者によく知られる「難しく、非協力的な著者」というカテゴリーに分類された。私たちは、彼の論文は掲載するには面倒すぎるが、まだ却下するほどではなく、関連する論文と一緒に掲載すれば読者の興味を引くかもしれないと判断した。
この行き詰まりからしばらくして、編集部は科学研究をテーマとした特集号を組むことを決定した。ポール・グロスやノーマン・レヴィット、その他の科学界の保守派からの攻撃に科学批評家たちがどう反応しているかを測りたかったのである。人文学者、社会科学者、自然科学者など、知識のあらゆる分野から寄稿が求められた(最終的なラインナップには、サンドラ・ハーディング、スティーブ・フラー、エミリー・マーティン、ヒラリー・ローズ、ラングドン・ウィナー、ドロシー・ネルキン、リチャード・レヴィンス、ジョージ・レヴィン、シャロン・トラウィーク、サラ・フランクリン、ルース・ハバード、ジョエル・コヴェル、スタンリー・アロノウィッツ、レス・レヴィドウなど、この分野の重要な名前の多くが含まれていた)。大部分は、一部で「サイエンス・ウォーズ」と呼ばれつつあった進行中の論争に直接応えたものだったが、それぞれの分野での研究について独自の報告を書いた者もいた。ここにこそ、ソーカルの論文が掲載されるにふふさわしい異質な文脈があり、彼の作品が提起した編集上の問題の現実的な解決策になると私たちは考えた。
この特集号に彼の論文を掲載できるか尋ねた際、彼はいくらかの懸念を示したが(私たちは、彼が特集号のために集められた論争的な面々から距離を置きたいのだろうと推測した)、活字になることへの熱意を繰り返し述べた。最終的に彼を含めるという私たちの決定は、読者が「サイエンス・ウォーズ」特集号という特定の文脈の中で、この分野では無名だが、その見解が風変わりであっても論争に関連していると考えられる人物からの寄稿として彼の論文を読むだろうという前提に基づいていた。彼の論文はこの特集号のために書かれたものではなく、依頼された他の論文とトーンも内容もほとんど似ていないため、9月にデューク大学出版局から刊行される予定の(キャサリン・ヘイルズ、マイケル・リンチ、ロジャー・ハート、リチャード・ルウォンティンらによる追加論文を含む)拡大書籍版には収録されない予定であった。
要するに、自分のパロディが『Social Text』のぼんやりした編集者たちの職務怠慢を暴いたというソーカルの思い込みは、見当違いである。それがパロディであるという事実は、徴候的な文書としてのこの作品に対する私たちの関心を実質的に変えるものではない。実際、ソーカルの振る舞いは、科学者の行動を分析する人々にとって急速に研究対象となっている。控えめに言っても、この事件は物理学者がどのように哲学を読むかという私たちの認識について何かを語っているため、私たち自身の役割も厳しい検証の対象となっている。彼の論文を掲載した決定については、私たちが正しかったのか間違っていたのかは読者自身が判断できる。しかし、この決定を文化研究の破綻の証拠と解釈するのは不条理である。
ソーカルの告白が最も変えたのは、自称左翼としての彼の善意に対する私たちの認識である。彼の欺瞞について私たちがどう感じようと、それに続く議論が生産的なものであり続け、対話者たちが志ある人々の間に存在する溝や分裂を利用する機会に抗い、代わりにそれらの違いを埋め、癒すよう努めることを願っている。私たちにとって、左派が左派を食い物にするのを見ることほど残念なことはなく、これは間違いなく20世紀で最も痛ましい光景の一つである。
その後(本物の)ソーカルと話した結果、彼が公にしようと意図していた問題のほとんどは、現時点では『Social Text』や『Lingua Franca』の読者にはかなりよく知られていると私たちは考えている。実際、それらは35年以上前に実証主義に対する最初のポストモダン、社会構築主義、あるいは反基礎付け主義の批判が登場して以来、アカデミーの中で巡り巡っている。多くの自然科学者が最近になってようやくこれらの批判に応答する必要性を感じているという事実は、アカデミーにおいて知識が流通するルートがいかに制限されており、各学部のチェックポイントで分野別のパスポート管理によって取り締まられているかを物語っている。
また、これらの批判は、実証主義が長く健全な命脈を保ってきた左派の方向性を巡る議論に長年関わってきた人々にとっても馴染みのないものではない。現時点において、私たちはこれらの批判や議論にいくばくかの関心を持っているが、ソーカルが想像するよりはるかに少ない。グロスやレヴィットと同様に、彼はこれらの批判を戯画化のレベルでしか吸収していないように見え、事実や客観的現実、重力の存在を否定する別世界の狂信者のような形でこれらの戯画を再発行している。私たちはソーカルがそのような人物が存在しないことを知っていると確信しており、一体なぜ彼がこのフィクションを推進するのか不思議に思っている。量子現実感の初期の提唱者たちが、自分たちのアイデアに対する反対意見の中で、同様のパロディに直面したことを彼は認識しているはずだ。これが起きたのは物理学だけではない。20世紀初頭の法的リアリズムに関する議論から、より最近の遺伝的還元主義に関する議論まで、多くの異なる学術的論争で同様の戯画化が見られてきた。もう彼らを休ませる時である。
その一方で、私たちはソーカルのような専門的な科学者が、科学研究の分野で行われている多様な研究によって自分たちの信念と知的な誠実さが脅かされていると感じていることを認識している。疑いなく、その研究の多くの側面において、科学者の歪曲された還元的描写が存在してきた。長年にわたり、この分野の多くの学者がこの不満に同情的に応答しており、かなりの共通基盤が確立されてきた。私たちもまた、例えば難解な表現についてのソーカル自身の懸念を共有している。私たちが長年にわたり退けるよう苦心してきたある種のセクト的なポストモダニズムと、『Social Text』が今結びつけられていることは非常に皮肉である。もしこのエピソードが空気を浄化してくれるなら、私たちはこの上なく嬉しい。
ソーカルは、『Social Text』の「サイエンス・ウォーズ」特集号に他の著者たちが提示した多くの議論に同意すると述べている。残念ながら、彼は今回の『Lingua Franca』誌のために私たちとの出版可能な対話に応じることを辞退した。しかし私たちは、専門知識の主張のみに依存せず、公共の利益によって形作られる科学の政治に関する冷静な議論の見通しに勇気づけられている。
私たちの最大の懸念は、科学研究によって生み出された議論に初めて触れる読者が、ソーカルのスタントによって、これが単に科学者と人文学者/社会科学者の間の学問的な縄張り争いであり、互いに出し抜こうとしているだけだと信じ込まされてしまうことである。悲しいことに、この結果は、専門的な科学者だけが、私たち全員に影響を与える科学的問題について意見を述べる資格を持つという前提を強化するだけだろう。私たちにとって重要なのは、「二つの文化」間の理解の溝というよりも、専門家と素人の声との間の権力の溝、そして現在変化しつつある科学と軍産国家との関係である。そしてこれらの懸念は、科学そのものの実践に無関係ではない。
科学が本質的に真理を語るかどうかを決定する前に、私たちは事実と価値を切り離すことが可能か、あるいは賢明かを何度も問わなければならない。これは、私たちがどのような進歩的な社会を推進したいかに関わってくるため、問うべき極めて重要な問題である。なぜ科学が私たちにとってそれほど重要なのか?それは、市民宗教として、また社会的および政治的権威としてのその力が、他のどの知識分野よりも私たちの日常生活や自然界の危機的状況に影響を与えるからである。だからといって、専門的な科学コミュニティの仕事を定義し形作る意思決定プロセスにおいて、非科学者が発言権を持つべきということになるだろうか? 一部の科学者(おそらくソーカルも含む)はイエスと答えるだろうし、一部の国では実際に非専門家の市民がこれらのプロセスに参加している。
しかし、次の質問が投げかけられると、大騒ぎになる。非専門家は科学的方法論と認識論について何か発言すべきか? 何世紀にもわたる科学的人種差別、科学的性差別、そして科学による自然の支配を経てきた今、これは問うべき妥当な質問であると人は思うかもしれない。
ブルース・ロビンズ、アンドリュー・ロス (『Social Text』共同編集者)
『Social Text』の編集者の一人が私の論文がパロディであったことを未だに信じていないと知り、面白く思っていることを告白しよう。やれやれだ。
『Social Text』の編集プロセスについて言えば、編集者たちの事後的な(事後作られた)弁明がもっともらしいかどうかは、読者自身で判断していただければよい。もしその弁明が本当だとしたら、それは今回の事件そのものよりもさらに致命的かもしれないのだから。彼らの主張する時系列の一部は、文書記録(私が保存している、ロスと私の間で交わされたEメールや通常の手紙)と食い違っているが、もはや済んだことをしつこく蒸し返すのはやめておこう(死んだ馬に鞭打つような真似はすまい)。
論文が「受理された」ことで引き起こされたスキャンダルよりも、私がより興味深いと思うのは、その「内容」によって引き起こされるべきスキャンダルの方である。私のエッセイは(ケイサ・ポリットの褒め言葉を借りれば)「ポストモダン的ちんぷんかんぷんを大爆笑レベルでかき集めたもの」であるだけでなく、数十人に及ぶ著名なフランスおよびアメリカの知識人による、ペテンやナンセンスの「注釈付き文献目録」でもある。これは「ポストモダニズム」という狭いカテゴリーをはるかに超えており、「科学論(サイエンス・スタディーズ)」、文芸批評、そして文化研究(カルチュラル・スタディーズ)において、現在最ももてはやされている思想家たちも含まれているのだ。
要するに、「社会的構築」をめぐっては実に多くのずさんな思考が横行しており、それは「事実」と「事実に対する私たちの知識」との区別を意図的に曖昧にするような語彙によって、しばしば助長されているのである。私は認識論の専門家ではないが、彼らの研究の中にはあまりにも非論理的なものがあるため、それを脱構築(論破)するのに専門家の力など必要としないほどだ。私は『Social Text』に掲載を求めて提出した「あとがき(Afterword)」の中で、一つの代表的な例を分析した。編集部がそれを(おそらく彼らからの反論と共に)掲載してくれることを期待している。また、スーザン・ハークやジャネット・ラドクリフ・リチャーズといった、私よりもはるかに鋭い哲学者たちにも寄稿を依頼してみてはどうだろうかと提案したい。
ロビンズとロスは、私が彼らとの「出版可能な(活字になる形での)対話に応じることを辞退した」と述べている。全くの逆だ。私たちは今まさにその対話を行っているではないか。私が辞退したのは「口頭での」対話である。私に言わせれば、口頭での議論は言葉数の多さの割に中身(内容)が伴わないことが多いからだ。
私が科学論の学者たちによって「脅威を感じている」とするロビンズとロスの推測は見当外れである。私の目的は、文芸批評(lit crit)という野蛮な群れから科学を防衛することではない(そんなことをされずとも科学は立派に生き残るので、余計なお世話だ)。私の目的は、流行に流される一部の陣営から「左派そのもの」を防衛することなのだ。多様な背景や学問分野を持つ無数の人々と同じように、私は左派に対し、その「啓蒙主義のルーツ」を取り戻すよう呼びかけているのである。私たちが何よりも心配しているのは、自然科学についてではなく、社会科学や人文学の行く末についてである。
ロビンズとロスは彼らの声明の最後の2段落で、現実の課題を山のように持ち出している。しかし、彼らのレトリックから中身をより分けるには、かなりの紙面を費やす必要があるだろう。彼らは、知的体系としての「科学」を、科学技術の「社会的・経済的役割」と混同しているのである。認識論的な問題と、倫理的な問題を混同しているのだ。
このような混同が、ロビンズとロスを深刻な誤謬へと導いている。すなわち、「科学」と「進歩的な政治(プログレッシブ・ポリティクス)」を対立するものとして設定してしまっていることだ。彼らは科学を、既存の社会的・政治的構造を支える「市民宗教」であるかのように描写している。もちろん、科学研究が権力と資金を持つ者たちの影響によって歪められていることは事実である。しかし、論理や証拠の基準へのコミットメント、そして理論を絶えず現実と直面させることに基づく「科学的な世界観」こそ、いかなる進歩的な政治にとっても不可欠な要素なのだ。
こうした相違はありつつも、ロビンズとロス、そして私の間には、潜在的に広大な共通の地盤が存在している。科学研究の資金提供が、その研究の特定の結果(例えば、その薬に効果があるかないか?)に金銭的利害を持つ民間企業からますます行われるようになれば、科学的客観性は損なわれる。(ただし、この議論を展開するためには、まず『客観性』という概念を持たねばならない。それは人間が到達し得る状態としてではなく、比較のための「理想的な基準」としてである。)大学が科学的情報のオープンな共有よりも特許のロイヤリティに関心を向けるようになれば、不利益を被るのは一般市民である。科学技術を取り巻く重要な政治的・経済的課題は数え切れないほど存在する。科学社会学(Sociology of science)は、その最良の形においては、こうした課題を明確にするために多大な貢献をしてきた。しかし、ずさんな科学がそうであるように、ずさんな社会学もまた無用であり、むしろ逆効果でさえあるのだ。