黒木 玄
最終更新:1999年9月18日
私の感想、『末路』、「『末路』の末路」、冨田、前田、リンク集
以下は、上野千鶴子著『マザコン少年の末路』 (河合ブックレット1、河合文化教育研究所、第1刷1986年、増補改訂1994年) と『上野千鶴子著『マザコン少年の末路』の記述をめぐって』 (河合おんぱろす増刊号、河合文化教育研究所、 1994年) の 2 冊を読んでの感想です。
1985年、河合塾大阪校は、上野千鶴子の講演会を企画しました。そして、その次の年に、それをもとにして作られたブックレット『マザコン少年の末路』が河合文化教育研究所から出版されています。そのブックレットは順調に売り上げを延ばし続けたのですが、 7年の1993年の1月下旬に、ある質問状が著者の上野千鶴子と河合文化教育研究所に届いたのです。『マザコン少年の末路』には、「母子密着の問題」の例として「自閉症」を安易に挙げるというトンデモない記述が含まれており、それに対して抗議する内容がその中に含まれていました。 (どのような記述があったかについては、以下の抜粋を見よ。)
そして、その後の話し合いの結末は、絶版ではなく、上野千鶴子自身による回答を付録「『マザコン少年の末路』の末路」として付け加え、増補版として新たに発行し直すことにし、ことの顛末を『河合おんぱろす』増刊号『上野千鶴子著『マザコン少年の末路』の記述をめぐって』として出版することになったのです。
『マザコン少年の末路』 (増補版) と『上野千鶴子著『マザコン少年の末路』の記述をめぐって』の 2 冊を続けて読むと非常に楽しめます。この 2 つのブックレットには上野千鶴子による回答「『マザコン少年の末路』の末路」が載っていますが、その回答が置かれた立場を知るためには、是非とも『上野千鶴子著『マザコン少年の末路』の記述をめぐって』の全体を読む必要があります。『『末路』の記述をめぐって』 (と以下略) には議論に参加した方々 (自閉症児の母親、最初のきっかけを作った高校教師、上野に講演を頼んだ河合塾の講師、『末路』の編集者) の文章が寄せられています。
それらをまとめて読むと、立場の相違を越え、互いにかなり深い理解が得られるような、有益な交流がなされた様が見て取れるのですが、上野だけが、学者という立場を堅持し、相互理解の輪から外れているように見えるのです。その点が非常に興味深いので、興味のある方は是非とも読んでみて下さい。
果たして上野の対応の仕方は十分であったのか? 多くの人が気になるのはこの点だと思います。この点に関して、私の意見を述べます。
上野による「『末路』の末路」からの抜粋を見ればわかる通り、上野が話し合いの後も、自閉症が母子関係に起因するという説とそれを否定する説を平等に扱うという形で、自閉症の原因に関する議論に強いこだわりを見せている点が印象的です。
上野は、「母親の過干渉過保護という育てかたによって引き起こされる母子密着の病理」という考え方に関して、学者もしくは専門家として立場から、社会的に数え切れないほど発言しているはずです。だから、その責任を、学者の立場から十分に「自閉症」に関して調査を行なうことによって取り、自分の立場をはっきりさせるという形で取るべきであると私は考えます。しかし、残念なことに、上野は「私はこの分野の専門家ではありませんから、ある学説の真偽を判定する能力はありません」と言い逃れようとしています。これはかなり無責任な態度だと思います。たとえ、素人であったとしても、「自閉症」について色々調べてみると、「自閉症の原因は母子関係にある」という説は全く信頼できないので、その説を決定的に否定するところの「自閉症は器質性の疾患である」という説とそれを平等に並べてしまうのは間違いであるということはすぐにわかりますし、その程度の主張は可能なはずなのですから。
あの件は、上野氏にとって、「母親の過干渉過保護という育てかたによって引き起こされる母子密着の病理」というドグマの限界を見極める絶好の機会であったはずなのです。そして、誠実な学者であれば、「自閉症」に関する誤解があったことを契機に、自分自身が広めて来たドグマの限界を正直に語るように変化しなければいけないと私は考えます。
最近の上野千鶴子は「母子密着の病理」に関してどのようなことを語っているのでしょうか?
上野千鶴子著『マザコン少年の末路』 (河合ブックレット1、河合文化教育研究所、第1刷1986年、増補改訂1994年) から「自閉症」という言葉を使っている部分を引用。強調は引用者による。
56-57頁より
たとえば子どもが非行に走るとか何とかっていうのは、よく母親が子どもの面倒をみなかったからだ、子どもに愛情を注がなかったからだとか言われますけれども、それどころか、現在起きている子どもの問題は、むしろ母親の過干渉、過保護によって引き起こされる、母子密着の病理の方がはるかに深刻なんですね。
いろんなケースがありますが、子どもの自閉症っていうのがあります。これはほったらかしにしたからできたのかというと、そんなことはないんです。子どもの言葉が出ない。小さい時にはわからないんです。普通なら一歳ぐらいから何かしゃべり始め、二、三歳までに言語の形成があるんですが、その時期になって初めて、おかしいな、近所の子はみんなしゃべってるのにうちの子だけ言葉が出ない、どうしてかしら、と思う。そのことに初めて、息子が自閉症だってことがわかるんですね。じゃあ何で言葉が出てこないかっていることを考えてみると、母親が子どもに、はしためのごとく侍ってるケースが多いですね。赤ん坊がうんうんとぐずる、ぐずると、さっと駆け寄って、はいオッパイ、はいオシメというぐあいにやってやる。子どもの欲求というものを常にこまかく繊細にキャッチして、それを先まわりして満たしてやる。つまりこれはよき母の典型ですよね。子どもがぐずればすぐに欲求を満たしてやって泣いたりわめいたりってことを極力させないのです。
57-58頁より
最近、女の子がどういう育ち方をしていくかということを研究している女性学の研究者が、言葉の発達に性差があるのは、女の子の方が男の子よりも母親から早く見捨てられるからだ、というおもしろい見解を出しました。つまり、親から見捨てられているから、その分だけ自分の欲求を相手にもわかるように表現しなければならない必要に迫られてるわけですね。男の子の方は、なかなかその必要に迫られないので、いつまでも自分の中に閉じこもって、グズッていればそれですむんですが、女の子はそういうことをやってても母親に何もやってもらえないから、ぎゃあぎゃあ言わないといけない。だからだいたい口が達者になるわけです。その結果言葉の発達に性差があるという結論を出しました。
一般に自閉症児は男の子の方が多いといわれています。それから登校拒否児も男の子の方が多いです。
登校拒否というのは、親の期待の重圧に耐えかねて、子どもがさまざまな心身症、おなかが痛いとか頭痛がするとかいう心身症を引き起こすことによって現実から一時避難するんですね。病人ならば大手をふって退行できるんです。一時退行できる。自閉症の子と登校拒否の子を比べると、自閉症は二、三歳のころですが、登校拒否は小学校ぐらいからです。
上野千鶴子の「『マザコン少年の末路』の末路」は、『マザコン少年の末路』の増補版に〈付録〉(91-111頁)および『河合おんぱろす』増刊号『上野千鶴子著『マザコン少年の末路』の記述をめぐって』の13-25頁で読める。以下の頁番号は〈付録〉の方の頁番号である。強調は引用者による。
98-99頁より
「自閉症」が「母子関係」に起因するかどうかについては、十分な証明はありません。他方、「自閉症」が「器質性」の疾患であるという説も、十分に証明されているとはいえません。「自閉症」は今日にいたるまで、まだ原因のじゅうぶんにわからない疾患です。「親の会」の方たちがおっしゃるように、「自閉症」が「器質性」のものであること、そして私がこの講演をした1985年までにはそれについて学会のコンセンサスができあがっていたことについては、今回ご指摘を受けるまで、それについて私がまったく無知だったことは、率直に認めたいと思います。そして少なくとも公の場で「自閉症」に言及する以上、責任のある発言をすべきであること、その気になれば調べることはいくらでもできたこと、それを怠ったのは私の怠慢であることは、まったくご指摘のとおりです。私が「自閉症」について書かれたものを目にした70年代から80年代の前半にかけて、「自閉症」を「母子関係」と結び付けて論じる臨床家の説は、いくつも存在してました。私は自分の見方に適合する他分野の専門家の説を、無批判に受け入れたことになります。が、もし、「自閉症」の器質説を知っていたら、私は「自閉症」を「母子関係」に結びつける見方にもう少し慎重だったことでしょう。そして少なくとも、「自閉症」の原因が確定できないという立場をとったことでしょう。
ある分野の専門家も、べつな分野に関してはたあの素人にすぎません。私はこの分野の専門家ではありませんから、ある学説の真偽を判定する能力はありません。私はひとつの専門家の説をいったんはうのみにするというまちがいを冒したのですから、私自身に判断のつかないことで、べつな専門家の説をふたたび根拠もなく受け入れることは避けたいと思います。ですが「親の会」の方がご指摘になるように、「自閉症」を「母子関係の病」と見なす専門家のなかに、子どもの問題をすべて母親の原因に帰する考え方があること、そしてそれが当の母親を追いつめるはたらきをしてきたことはたしかでしょう。私が意図せずにそのはたらきに荷担してしまったこと、その背後に、実際にそういう立場に立った女性たちに対する想像力を欠いていたことは、ご指摘をうけてあらためて感じたことです。
「自閉症」から「登校拒否」、さらには「家庭内暴力」を、子どもの一定の発達段階に応じた「発達障害」であり、それには母親の「育て方」に問題があると見なす一部専門家の説を、私がうけいれたことには、原因があります。それは「母子密着の病理」を強調したいために、それに適合的な説を無批判に受け入れたという事実です。もちろん「母子密着」の裏側に「父不在」というかたちで、夫婦関係の疎遠な夫・親子関係に責任をとろうとしない父がいることを指摘するのは忘れませんでしたが、すべてを親子関係のダイナミックスで解こうとする偏りを、私は他の臨床家や心理学者とともに共有していました。しかもその親子関係は「母子密着」/「父不在」を「日本型」と考える、かなり図式的なものでした。
冨田幸子(高槻南高校教諭)の「「自閉症」と「母性神話」」 (『上野千鶴子著『マザコン少年の末路』の記述をめぐって』 27-63頁) から引用。リンクは引用者による。
29-30頁より
さらに問題なのは「自閉症」についての記述だ。自閉症の原因については、まだ十分に解明されてはいないが、少なくとも、放任や過保護といった育て方によって引き起こされるという考え方は今では完全に否定され、先天的な脳の器質的障害、あるいは機能的障害、発達障害だと言われている(注)。
WHO(世界保健機構)が1978年に出した定義では、自閉症は、次のように説明されている。
遅くとも生後30ヶ月までに症状が認められる症侯群である。聴・視覚刺激に対する反応が異常で、通常、話しことばの理解に重篤な障害がある。言語発達は遅れ、もし発達しても反響言語、代名詞の倒用、未熟な文法構造、抽象語の使用困難という特徴が認められる。一般に音声言語と身ぶり言語を社会的に用いる能力に障害がある。社会関係の障害は、5歳以前に著明で、それには視線を合わせたり、社会的愛着を向けてくることがなく、共同遊びをすることがないなどの発達の障害を持っている。また、通常、儀式的行動が見られ、日常の手順に異常に固執したり、状況の変化に強く抵抗したり、奇妙なものに固執したり、遊びのパターンが常用的であったりする。抽象的あるいは象徴的思考や想像遊びの能力に乏しい。知能の程度は高度の遅れに属するものから、正常あるいはそれ以上のものまである。行動は通常、象徴的あるいは言語技能を必要とする課題よりも、暗記力や視覚、空間的技能を含む技能の方が優れている。「自閉症」は、「自閉」という言葉のイメージから、他の情緒的なゆがみと混同されやすく、そのイメージに引きずられて、母親の育て方によって引き起こされた情緒のゆがみであるというような、誤解、偏見がなかなかぬぐわれなかった。
……(途中略)……
こうした偏見に対し、自閉症児の親たちが抗議に立ち上がって久しい。 84年~85年には、自閉症児の親たちの活動がずいぶん新聞に取り上げられ、「定着する脳障害原因説」という記事も目につく。それなのに、上野さんが、どうしてこんな誤りをおかしたのだろう。『上野千鶴子』といえば『フェミニズムの先頭を走る、女性の味方』というイメージがあっただけに、期待を裏切られた思いがした。
「自閉症」から「登校拒否」、さらには「家庭内暴力」を、子どもの一定の発達段階に応じた「発達障害」であり、それには母親の「育て方」に問題があると見なす一部専門家の説を、私がうけいれた背景には……と、「登校拒否」や「家庭内暴力」を「発達障害」として「自閉症」と同列に扱う心理学者があったように書かれているが、私は、寡聞にして上野さんの言われる専門家を知らない。私が理解する限りでは、専門家の間では、自閉症が「発達障害」だと位置づけられるようになって以来、自閉症は、「登校拒否」や「家庭内暴力」で言われる「情緒的ゆがみ」とは、截然と区別されるようになった。「発達障害」というのは、精神遅滞や、脳性マヒなどと同範疇の「発達の遅れやゆがみ」を指して用いられてきた、と思うのだが。
49頁より
私たちが上野さんに二度目の話し合いを要求したのは、上野さんに「自閉症」がどのような『障害』であるかを理解していただきたかったからだ。そして、その上で、『障害』者問題をその女性論の中に位置づけていただきたかったからだ。しかし、残念ながら、二度の話し合いの後も、上野さんには最後まで、「自閉症」が『障害』であるという私たちの主張を理解していただけなかった。
前田昌江の「高槻自閉症児の親の会から」 (『上野千鶴子著『マザコン少年の末路』の記述をめぐって』 75-81頁) から引用。
76-77頁より
上野さんと言えば「弱い者の味方」というイメージがあって、これを機会にわかってもらって自閉症児の味方になってもらえたら、という期待がありましたが、上野さんの謝罪文(本誌掲載)を読んで、「二度と自閉症にかかわるものか」という上野さんの姿勢が感じられ、その落差が激しくて、今回、文章を書くようにと言われていたのですが、文章が苦手な私はとても書く気になれなかったのです。